今回は「俳句の詩精神を考える」シリーズの4回目。下記の文章は、「飯田蛇笏集成第七巻 評論・紀行・編纂」(飯田龍太監修、角川書店)335頁からの抜粋です。ここでは、沢山の句を作るように心掛けることが俳句の上達法なのか?。その問いに対する蛇笏の考え方が書かれています。
(以下、引用開始)
熱心のあまりなかなか沢山の数を寄せてくる作者がよくある。それも必ずしも結構でないとは云わない。正岡子規に或る人が俳句の上達法を訊ねた。すると、子規はそれに答えて、兎に角沢山俳句を作りなさいと云ったということを頭初にも述べた。まことにこれは簡潔な答えで意味深いものが存するわけで、説明や理窟ばかり達者で、実作にたずさわらないことにはどうしようもないのである。そういうわけで兎に角、理窟抜きで一生懸命実作に当たるということは最善の途であるに違いない。
私は毎月多くの句稿を見ているが、信濃の某青年の如きはそうした点で、まことに親愛の情がよせられる側の一人だ。熱心さのあまり実に沢山の句を作るようである。
いま云う通り、このことは一通り結構なことであるに違いないが、そうした熱心さに、もう一つ考慮を加え、作ることを急がず、数を上げるに慌てることなしに、大いにゆったりと心を構えて、天地自然の風物に対し、じっと深く観入することを、心掛けてもらいたいと思う。ものの皮相な見方ではいくら沢山の数を得たところで、結局みな中途半端なものが多くなりがちなものである。深く物象に観入することを心掛け、而もその思いを出来るだけ内に潜めて詠みいづることが出来れば、それこそ上乗の作品たるを得るのである。
(以上、引用終わり)
諺に「ヘタな考え休むに似たり」とあります。いくら数多く作句しても、中途半端な考えの下では中途半端な句しか出来ません。それもまた私の経験則です。なので、今の私はあまり数多く句を作ることはしていません。定例会に出す句は7句ですが、それに対して私が作る句はせいぜい7~10句程度。私は数多く作ることよりも、前回のブログ記事でも申したように、時間を味方につけることの方が大切だと思っています。それに、俳句を作るのに俳句の研究ばかりするのもいかがかと思っていまして、私は俳句以外にも宇宙・生命・仏教といったものにも関心があって、この勉強を通して得た感覚が俳句を作る際に役立っていると感じています。