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2009年3月

2009年3月29日 (日)

姿勢は主たらず

今回は「俳句の詩精神を考える」シリーズの3回目。下記の文章は、「飯田蛇笏集成第七巻 評論・紀行・編纂」(飯田龍太監修、角川書店)331332頁からの抜粋です。ここには良い句と、そうでない句の見分け方について記されていると、私は理解しています。

(以下、引用開始)

選をしていて、いつも天地人だとか第一席第二席第三席とかいった風にとる以外のものでなかなか立派な形をした作品がいくつか認められる。しかしながら、突っ込んで吟味するとなると、どこかしらん気のぬけたようなところがある。この短詩形文学として重要性を持つところの迫真力において欠けているのである。しかも、その姿勢だけはまことに整ったものである。その整った姿勢というものは随分、初学者の魅力をそそったりすることがあり勝ちなものだけれども、これの評価からいって結局、優秀なものたり難いことは、かかる作品を長く玩味することによって判ってくる。すなわち、そうした作品は必ず飽きがくるのである。

しかるに、真に芸術的な迫真力を内に潜めながら、よりよく単純化された作品というものは、玩味してゆくうちに益々味が出てくるのである。飽きがくるどころか、それと全く正反対に魅力が強くなってくる。そういうことで最もよく判るのである。所謂、美辞麗句的作品構成が排されなければならぬことをものがたり、飽くまでも実感に出発し、実感を主眼とせねばならぬことを明示するものなのである。

(以上、引用終わり)

諺に「岡目八目」というのがあります。つまり、他人の句は客観的な目線で評価できても、いざ自分の句となると、なかなかそうはいきません。そこで、私は試行錯誤の中から、今はある事を実行しています。それは、私の属する俳句の会では、定例会と吟行会が月に1回づつあります。吟行会では吟行地で句を作りますが、定例会では事前に句を作って行きます。そうすると、定例会が終わって、次の定例会まで1ヶ月の間が空きますが、私は定例会が終わってから1週間後までには、次の定例会に出す句を作るようにしています。何故そうしているかと言うと、作った句を寝かせて熟成させる期間が必要だからです。そうすることで、良い句とダメな句を見分けることが出来るように思います。句を作った当初は全て良い句に思えるものです。しかし、時間が経ってから見直すと、「あれ、この句は全然ダメだな。何故これが良い句だと思ったのだろう?。全然ダメじゃないか」と思えてくるのです。そうした句はサッサと捨てて、新たな句を作ります。自分が作った句が良い句かどうかを見分ける方法は、時間を味方につけて、上記の文章で蛇笏も書いているように「長く玩味する」ことがポイントだと思っています。

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2009年3月26日 (木)

感激を得るために

今回は前回に引き続き、「俳句の詩精神を考える」シリーズの2回目です。下記の文章は、「飯田蛇笏集成第七巻 評論・紀行・編纂」(飯田龍太監修、角川書店)329330頁からの抜粋です。なぜ芭蕉が俳句づくりの長い旅路に出たかが記されています。

(以下、引用開始)

一輪の薔薇を詠むとしても一景の山を詠ずるとしても、何よりまず大切なことは、それらの対象に感激したことによらなければならぬ。と、いうと多くの人は直ちに反駁するであろう。俳句を詠むにしても短歌を詠ずるにしても、恐らく感激なしに之をするものは無かろうではないかと。

作品がどうやら形を整えている以上、まことにそのように一応感じられるのである。しかしながら、こうした短い形式をもった作品はそうした風貌こそ持ってはおれ、その実、美的感激のめざましいものがなくとも兎に角出来上がり易いのである。最も極端に云えば一つの季題をおいて、上五、中七、下五をそれぞれ何処からか借りて付け合わせたところで、どうやら形だけは整え得るのである。

それほどのものだけに、よしんば其処まで行かなくとも若干の歳月を作家として過ごしてきた者は、作句に馴れた手心地で特に感激なしでも随分作り上げることが出来る。事実上そういう作品が無数に認められるのである。併しそれはいけないと思う。

詩も殊にこうした短詩形のものにあっては、そのゆきみちでは必定、人心に迫る力が乏しいのである。芭蕉などはその素晴らしい感激を得たいばかりに長途の旅を続け、而も貧弱な程度のものはどしどし捨て去った。この点に深く鑑みることによって誰でも一段の飛躍を果げ得ることを信ずるのである。

(以上、引用終わり)

私も実際に作句していて思うのは、そうそう感動する場面には出会えないということです。ですから、芭蕉が心に感動を得る瞬間を求めんがために、「奥の細道」の長い旅路に出たとするならば、私にはその気持ちがよく分かります。私はこれまで芭蕉は天才なるが故に、俳句を芸術の域にまで高めんがために長い旅路に出たと思っておりましたが、決してそうではなかったのですね。私はこの蛇笏の文章に接して、急に芭蕉が身近な存在に思えてきました。

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2009年3月23日 (月)

生きた作品

今回以降、5回シリーズで、俳句を作るに当たっての詩精神といったものについて少し考えてみたいと思います。しかし、そうは言っても、諺に曰く、「下手な考え、休むに似たり」と。なので、先達の高名な俳人と、その文献を手掛かりに考えを進めていきたいと思います。その俳人とは、飯田蛇笏。文献は「飯田蛇笏集成第七巻 評論・紀行・編纂」(飯田龍太監修、角川書店)です。まず初回は、生きた俳句の生きた俳句たる所以について考えてみたいと思います。

下記の文章は、「飯田蛇笏集成第七巻 評論・紀行・編纂」(飯田龍太監修、角川書店)330331頁からの抜粋です。私はかねがね生きた俳句とそうでない俳句の違いは何かについて漫然と思い悩んでいたのですが、この文章を読んだとき、その答えに触れたように思いました。

(以下、引用開始)

絵画について云うと判りやすいが、絵に死んだ絵と生きた絵とがある。どういう画が死んだ絵かというと、一見立派な絵具でぬりこめられ、労力と時間とがかけられてあるもので、絵らしい絵であるには違いないが、深く鑑賞するうちに倦きが来てしまう。倦きが来るばかりでなく、やがてさげすみたくなる感じが湧いて来るのである。そういうのは自然の風物を画いたにしても、また人物を描写したにしても、対象に感激し、おのれの心魂を打ちこんで画くのでなくして、ただ単に絵というものを画こうとして成ったものだからである。こういうのは死んだ絵というのである。

生きた絵というのは、いま云うところと正反対に、極めてあっさりした画きぶりのようであっても、見ているうちにだんだん心に迫るものがある。生気潑刺という形容がそうしたものにあてはまるのである。それは作者が自然なり人事なりに深く感激し心魂を打ち込んで、たとえ分秒の間でも一心不乱にかかっているからである。

このことは、決して独り絵画のみに云われることではない。すべての芸術がそうなのであるが、ことに俳句の如く最も短い形式において表現しようとする芸術にあっては、其処が一層著しいのである。単に十七文字をならべて俳句らしい形ばかりそなえたところで駄目だし、むずかしい文字などを用ゆるのは尚更いけない。

誰人にも判り易く、而も深く心魂を打ち込んだものでなくては、決して上乗の作品ということは出来ない。すなわち生きた俳句を作ることでなければ不可いのである。

(以上、引用終わり)

この蛇笏の文章から察するに、やはり生きた俳句には魂がある。魂が入っている。作者が対象に深く感激し、たとえ分秒の間でも心魂込めて作ることによって、その俳句に魂が宿る。そして、その魂がその句を詠んだ人の心を揺さぶる---そういう事なのだなあって感じ入った次第です。私もそうした俳句を作るように心掛けて、日々努力精進していきたいと思います。

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2009年3月20日 (金)

開帳

秘仏が開帳される。それが三十年とか、五十年とか、百年に一度ともなれば、その秘仏を是が非でも拝ませて頂こうと、多くの人が訪れる――そうした光景は由緒ある寺院ではよく見られる風物詩と言えるものですが、信仰の求め方もまた人それぞれです。ご利益的に求める人もいれば、自らの人格形成を願って祈る人もいますし、自分のことよりも他の幸せを願う人もいます。

百年に一度の開帳待ち遠し

百年は誇張した表現ですが、時の名仏師が心魂を込めて刻んだご秘仏を拝することで、涙を流し心を癒される人がいる。そして、落ち込んでいた心に灯が点り、勇気と元気を取り戻す。それは間違いなく、その人の心が救われた証だと思います。

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2009年3月17日 (火)

大試験

前回の記事の句――

大試験ペンの音のみ響きをり

に対して、ある読者の方から、次の句を寄せて頂きました。

大試験鉛筆の音時刻む

でどうでしょうか?と。どうも有難うございました。臨場感が出ていて、とても良い句だと思います。今後とも、ご指導・ご鞭撻の程、宜しくお願い致します。

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2009年3月14日 (土)

大試験

今回も前回に引き続き、「大試験」という季語で作った一句です。

大試験ペンの音のみ響きをり

単なる試験ではなく、大試験ですからね。やはり人生を賭けた試験と言えるでしょう。例えば、入学試験とか、資格試験。それも難関と言われる大学や資格を取るための試験ともなれば、競争も厳しく、まさに真剣勝負です。しかも、その試験に受かったことがゴールではなく、その先にはまだまだ試練が待っています。人生は厳しいですね。

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2009年3月11日 (水)

大試験

ひと口に試験と言っても、受験もあれば、資格試験もあって、この頃は数も増えています。大学入試は春、国家公務員試験とか、司法試験は夏です。ただ、「大試験」という季語に関しては、これは春。

重圧に耐えて闘う大試験

本当は試験というのは、勉強しなくても通るくらいでないとダメですね。普通に使えるくらいの知識でないと資格とは言えないですね。まあ、勉強に努力するタイプかどうかを試験しているのだと思います。

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2009年3月 8日 (日)

春めく

今の時期というのは、これから新しい学校への入学。今まで通った学校からの卒業、そして新しい会社への入社。更には、社内での人事異動、転勤などと、何かと人の動きが慌ただしくなり、そこにまた新しい出会いが待っている。そして、新しい恋愛も・・・。そうした期待と不安に胸がふくらむ時期でもあると思います。しかも、これからは、だんだんと春らしく暖かくなっていきます。

春めきて恋の予感に胸おどる

男と女の出会い。そして、恋や恋愛に年齢は関係ありません。今年の春はどういう出会いが待っているのでしょうか。

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2009年3月 5日 (木)

白酒

今回は前回に引き続き、白酒です。実は前回の一句である

白酒に酔いし我が身の悲しさよ

この句を見たある方から、次の句を返して頂きました。

○白酒で酔える我が身の幸せよ

つまり、「白酒でも酔える貴方はとても幸せな人ですよ」と言って頂いたわけです。確かに、私は酒が弱いので、酒の席にはあまり縁がありませんが、それでも酒を飲んだ時には弱い分だけ陽気になれます。物事は、何事も考え方次第ですね。

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2009年3月 2日 (月)

白酒

雛祭りに雛に供える濃い白いお酒。それが白酒です。その白酒にさえ酔ってしまう我が身の悲しさ。私は、ある人から「酒を飲めないというのは人生の楽しみの半分を知らないのと同じだ」と言われたことがあります。

白酒に酔いし我が身の悲しさよ

酒というのは人間関係を築く上での潤滑油のようなものだと思います。私は酒が弱くて、その分、人生を損している気がしています。

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