姿勢は主たらず
今回は「俳句の詩精神を考える」シリーズの3回目。下記の文章は、「飯田蛇笏集成第七巻 評論・紀行・編纂」(飯田龍太監修、角川書店)331~332頁からの抜粋です。ここには良い句と、そうでない句の見分け方について記されていると、私は理解しています。
(以下、引用開始)
選をしていて、いつも天地人だとか第一席第二席第三席とかいった風にとる以外のものでなかなか立派な形をした作品がいくつか認められる。しかしながら、突っ込んで吟味するとなると、どこかしらん気のぬけたようなところがある。この短詩形文学として重要性を持つところの迫真力において欠けているのである。しかも、その姿勢だけはまことに整ったものである。その整った姿勢というものは随分、初学者の魅力をそそったりすることがあり勝ちなものだけれども、これの評価からいって結局、優秀なものたり難いことは、かかる作品を長く玩味することによって判ってくる。すなわち、そうした作品は必ず飽きがくるのである。
しかるに、真に芸術的な迫真力を内に潜めながら、よりよく単純化された作品というものは、玩味してゆくうちに益々味が出てくるのである。飽きがくるどころか、それと全く正反対に魅力が強くなってくる。そういうことで最もよく判るのである。所謂、美辞麗句的作品構成が排されなければならぬことをものがたり、飽くまでも実感に出発し、実感を主眼とせねばならぬことを明示するものなのである。
(以上、引用終わり)
諺に「岡目八目」というのがあります。つまり、他人の句は客観的な目線で評価できても、いざ自分の句となると、なかなかそうはいきません。そこで、私は試行錯誤の中から、今はある事を実行しています。それは、私の属する俳句の会では、定例会と吟行会が月に1回づつあります。吟行会では吟行地で句を作りますが、定例会では事前に句を作って行きます。そうすると、定例会が終わって、次の定例会まで1ヶ月の間が空きますが、私は定例会が終わってから1週間後までには、次の定例会に出す句を作るようにしています。何故そうしているかと言うと、作った句を寝かせて熟成させる期間が必要だからです。そうすることで、良い句とダメな句を見分けることが出来るように思います。句を作った当初は全て良い句に思えるものです。しかし、時間が経ってから見直すと、「あれ、この句は全然ダメだな。何故これが良い句だと思ったのだろう?。全然ダメじゃないか」と思えてくるのです。そうした句はサッサと捨てて、新たな句を作ります。自分が作った句が良い句かどうかを見分ける方法は、時間を味方につけて、上記の文章で蛇笏も書いているように「長く玩味する」ことがポイントだと思っています。
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